戦後焼け野原だった広島の街の復興とともに、お好み焼のカタチが出来上がるまでには数々の歴史があります。
その物語の中心的な人物であり、広島の街に「お好み焼」を誕生させた“みっちゃん”こと井畝満夫(いせ みつお)。
広島の街にお好み焼を生み出した一人として、歴史を語り継ぎ、お好み焼を広島のソウルフードへと定着させました。
令和3年3月3日、二代目 井畝満夫を襲名。15歳より初代 井畝満夫に師事した一番弟子 。
初代が追求し、創り上げたみっちゃんの味と技、精神を受け継ぎ、多くの若手職人たちを育成しています。
昭和25年頃はさらさらのウスターソースを塗っていましたが、それではソースがしみ込んでしまいます。ウスターソースを作る過程で廃棄されるドロドロした沈殿物を見て「これはお好み焼に合う!」とひらめき、片栗粉を入れてとろみのあるソースを作ってくれと頼んだのでした。こうしてドロッとした、現在の『お好みソース』が誕生しました。
ネギの代わりに安いキャベツを入れたところ、ボリュームも出て美味しくなりました。キャベツの値段が高騰した際に、具を多く見せるために年中安いモヤシを入れてみるとキャベツとの相性はバッチリ。 定番の組み合わせとなりました。
屋台で「お好み焼」を食べていた“みっちゃん”が、焼きそばの上にお好み焼をのせてみたところ「こりゃ〜美味しいし腹もいっぱいになる!」ということで、今のお好み焼の原型が誕生!具の充実とともに丸いお好み焼に形も変わりました。
そば入りのお好み焼を店舗で最初にメニューとして提供したのも“みっちゃん”でした。
屋台では、皿を洗うには水を汲みに行かなければならないし、割り箸も高価な時代。鉄板の上でヘラを使って食べれば、皿も割り箸も使わなくてすむと考えた“みっちゃん”は、お客さんにこのスタイルをすすめました。珍しいスタイルは人気となりました。
創業当時は、熱くなる金属製のヘラの持ち手に布を巻き付けていましたが、すぐに汚れてしまうので、木の板を取り付ける事を思いつきました。このヘラを作ったのは、屋台仲間の女将のためでした。「みんながうちも付けてくれ〜と言う事になったんよ」。
初代 井畝満夫の父親 井畝井三男(いせ いさお)が、「美笠屋」の名前で、中央通りにお好み焼屋(屋台)を創業。後に東新天地公共広場(現在の広島市中区新天地)に移転。病弱な父に代わって19歳の『みっちゃん』が営業。昼間は街の復興のために働き、夕方から屋台でお好み焼を売る… そんな時代でした。
昭和28年店名を「美笠屋」から『みっちゃん』に変更。
たくさん並ぶ屋台の中から、知り合いに自分の屋台を見つけて来てもらうため、すぐに分かるようにと自分の愛称を店名に。
屋台を西新天地公共広場(現在の広島パルコ周辺)に移転。50軒ほどの屋台が密集。
昭和30年頃、「そば」の入った
現在のお好み焼の原形が完成!
具が充実し、2つ折りから円形へと変化。
広島市の条例により、屋台が立ち退きに。広島駅ビルに『みっちゃん』最初の店舗を出店。
あまりのお客さんの多さに、大阪までキャベツ切りの機械を買いに行ったほど。
みっちゃん総本店の1号店を八丁堀に開店。開店と同時に大人気となった総本店。開閉し過ぎでよく壊れていた「引き戸」を「自動ドア」に替えることに。
昭和62年みっちゃん総本店を現在の八丁堀本店の場所に移転。
そのころ、福屋八丁堀店も開店。
本場の味をご家庭で味わえるチルド商品の販売をスタート。
みっちゃん総本店 広島駅新幹線名店街店を開店。
みっちゃん総本店 八丁堀本店リニューアル。
みっちゃん総本店 「雅」(miyabi)そごう広島店を開店。
みっちゃん総本店 じぞう通り店を開店。
みっちゃん総本店 ゆめタウン廿日市店を開店。
広島市佐伯区に「冷凍お好み焼」工場設立。広島のお好み焼を全国のみなさまにお届けしています。ネットショップや店舗、空港などで販売中。
広島駅にオープンしたekie DININGの廣島ぶちうま通りに
「みっちゃん総本店 広島駅新幹線口 ekie店」として移転オープン。
(広島駅新幹線名店街店の移転)
みっちゃん総本店 「鐵」(KUROGANE)流川店をオープン。
みっちゃん総本店が東京へ初出店!
「みっちゃん総本店 新橋店」が新橋駅前のイータス新橋にオープン。
(有)エムズ・(有)いせ から、「株式会社 ISE広島育ち」に社名を変更し合併。
二代目 井畝満夫 襲名。
初代の創り上げてきた老舗の味と技を伝承。
東京2店舗目となる「みっちゃん総本店 東京ソラマチ店」がオープン。
お好み焼店5店舗が集結するお好みセンター「/5」に
みっちゃん総本店 ゴブンノ店を開店。
2024年3月、おりづるタワー1Fに「みっちゃん総本店 おりづるタワー店」を移転オープン。(雅 そごう広島店から移転)