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広島風お好み焼物語

井敏満夫

「みっちゃん」こと 井畝満夫(いせみつお)

広島のソウルフードとして愛され続け、今では全国的にも知られるようになった「広島流お好み焼」。
戦後焼け野原だった広島の街の復興とともに、お好み焼のカタチが出来上がるまでには数々の物語があります。

その物語の中心的な人物であり、広島の街に「お好み焼」を誕生させたのが『みっちゃん』 こと井畝満夫(いせ みつお)なのです。

「今ではもう、あの頃のことを知る人がいなくなったんよ・・・」。
井畝満夫は、今も現役でお好み焼を作り続けている最古参であり、広島の地にお好み焼を生み出した一人として、半世紀以上の歴史を語り継ぎ、広島のお好み焼文化を守り続けています。

広島流お好み焼の生みの親『みっちゃん』こと井畝満夫

戦後間もない昭和25年。
井畝満夫の父親 井畝井三男(いせ いさお)が、「美笠屋」の名前でお好み焼の屋台を出したのがはじまりでした。
病弱な父親に代わり、当時19歳の『みっちゃん(当時の満夫の愛称)』が店を営業しました。 昼間は街の復興のために働き、夕方から屋台でお好み焼を売る・・・そんな時代でした。

創業当時のお好み焼は、クレープ状の生地にネギとわずかな野菜をのせて焼き、半月状に折りたたみ、ウスターソースを塗って薄皮と呼ばれる木の皮にのせ、新聞紙に包んで持ち帰える、小腹が空いた時に食べるおやつ感覚のものでした。

しかし、食糧のない時代ゆえにお腹を満たすものでなければ売れない・・・。売るためには改良する必要がありました。

昭和25年から30年代にかけて、『みっちゃん』のさまざまなアイデアやひらめきを盛り込むことで、現在のお好み焼の原型へと変化していきました。ドロッとしたお好みソース、そば・キャベツ・モヤシが入る今のスタイル、鉄板の上でヘラを使って食べる文化など…どれも『みっちゃん』のアイデアから生まれたものなのです。

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やんちゃな性格の『みっちゃん』は、屋台仲間のリーダー的な存在

若い頃の『みっちゃん』は、とにかくやんちゃで、広場に集まる屋台仲間のリーダー的な存在でした。

当時、屋台といえば『ショバ代』を取られるのが当たり前。みんながショバ代を取られているのに『みっちゃん』のところには徴収に来ない「おかしいなぁ?と思うたんよ。なんでわしのとこだけ来んのんかね?と思うたら、元締めの親分は遊び仲間じゃったんよ」。
そこで『みっちゃん』は、みんなから集めたお金を渡して親分を説得、広場一帯の屋台のショバ代を免除してもらったという逸話もあります。

昭和40年には、広島市の条例により屋台が立ち退きを強いられるという大きな転機が訪れました。
その時も『みっちゃん』はリーダーシップを発揮し、広島駅ビルの中にみんなで店を出すという話を先頭に立って進めました。「絶対に流行る!」という自信があった『みっちゃん』は、躊躇する仲間を説得して一緒に駅ビルに出店。すぐに行列ができる人気店となりました。

そんな『みっちゃん』こと井畝満夫。
近年では、広島のお好み焼を全国に広めるために、お好み焼教室の講師として多くの卒業生を全国に輩出したり、全国各地の催事に出店するなど、お好み焼文化を広める活動に力を注いでいます。

戦後の広島の街の復興とともに、屋台から誕生したお好み焼は、広島のソウルフードとして半世紀以上も愛され続けている。